戦国時代 (講談社学術文庫)

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時代を見る目で読み解く

歴史上の名だたる武将が生き抜いてきた戦国時代。興味を持って学ぼうと思っても、当時の情勢が複雑すぎて理解できないという経験をした人は多いのではないでしょうか。本書では、戦国時代の開幕である1490年代から国内統一までのほぼ1世紀の間に起きた出来事を詳しく解説しています。

永原 慶二 (著), 本郷 和人 (解説)
出版社 : 講談社 (2019/7/12)、出典:出版社HP

目次

はじめに―動乱と革新の世紀

戦国時代の開幕
早雲、豆・相を取る
尼子経久、出雲を制す
道三、美濃を奪う
室町幕府体制の崩壊
戦国大名への道

惣・一揆と下剋上の社会状況
百姓と地侍のコンミューン
門徒の一揆と惣国
曲折する民衆の戦い農村経済の不安

「世界史」の成立と新技術
東アジア情勢の新展開
鉄砲伝わる
戰術革命
木綿の国産始まる

関東・東北の争覇戦
東国の三強
信玄、信濃に進出
謙信、南下を図る
氏康、領国を固める
奥羽の戦国

中国・四国の戦い
毛利元就
大内滅亡
銀山をめぐる死闘
四国の動向

軍事力の構成
国衆連合の不安
家臣団の構成
軍役の形態
水軍の編成
城と合戦

領国経済体制
土地と農民の支配
職人の掌握
流通網の編成
鉱山開発

都市と商人
戦国の城下町
港津都市の発展
中央都市京都

九州の情勢とキリシタン大名
布教と貿易
大友宗麟
平戸と長崎
九州制覇をめざして

畿内政権と京・堺
細川晴元と三好長慶
堺と京都
松永久秀

大名国家と日本国
大名国家の法と公儀
大名と天皇・公家

織田信長の進出
清洲から岐阜へ
畿内進出
反信長陣営の反撃

一向一揆と本願寺
戦国大名と一向一揆
本願寺と現世権力
一揆結合の様相

「天下布武」
反信長陣営の崩壊
一向一揆鎮圧
信長の軍事力とその基盤
安土進出
織豐政權展望

おわりに――日本歴史上の戦国時代

あとがき
参考文献

解説 本鄉和人
年表

永原 慶二 (著), 本郷 和人 (解説)
出版社 : 講談社 (2019/7/12)、出典:出版社HP

はじめに――動乱と革新の世紀

旧秩序の解体

京都の大半を焼きつくし、各地を動乱の渦に巻きこみながら一〇年余りに及んだ応仁の大乱は、文明九年(一四七七)ようやく終わりを告げた。
その年、興福寺大乗院門跡の尋尊(関白一条兼良の子)は、日記の中で大乱によって一変した諸国の状況を次のように区分けした。

第一は、幕府の命令にことごとく従わず、年貢を一向に進上しない国々、
第二は、国中なお戦乱で、年貢進上どころでない国々、
第三は、幕府の任命した守護は一応下知に従うが、守護代以下在国の者共が従わない国々、

大別すると諸国はこの三つのいずれかの状態にある、というのである。しかし尋尊は国々をこの基準によって色分けしてみたものの、結局は「日本国は悉く以て御下知に応」じないということだ、とサジを投げてしまっている。
応仁の乱以前は、幕府もそれまで永らく社会の骨組みとなってきた荘園公領制の秩序を大枠としては認めており、守護や国人(在国の旧地頭級在地領主)が、「職」という形で定められた職権の範囲を越えて独立領主化する動きを抑える方針をとっていたが、それが大乱をきっかけとして全面的に崩れだしたのである。実際、各地の荘園の史料を見ても大部分は応仁の乱を境に年貢が納まらず有名無実になっていっている。
しかもそればかりでなく、社会の変動は、村々の地侍や民衆の動きによっていちだんと底深くおし進められていた。応仁の乱後の文明一七年(一四八五)の山城国一揆につづいて、長享二年(一四八八)には加賀の一向一揆が守護富樫政親を倒し、「門徒持ち」の国といわれるほどの事態を出現させた。権力は将軍から守護へ、守護から守護代・国人へ、そしてさらに地侍・「百姓」へと、しだいに分散下降し、下剋上的社会状況が広まり、時代は室町から戦国へと移り出していた。
この間、将軍義尚は近江に出兵(一四八七)して、同国南半の守護六角高頼を討つなど、幕権の回復にそれなりの努力をかたむけたが、翌々年、酒色がたたってわずか二五歳で鉤の陣中に死んだ。その後、義材(義稙)・義高(義澄)・義晴・義輝とつづく将軍たちは、みな細川・三好などの実力者たちの都合によって擁立され、また追放されてゆき、次の表で分かるように、だれ一人、京都で平穏に終わりをまっとうすることができなかった。しかもそのように将軍の運命を翻弄した細川にしても、ほんとうに実力をもっていたのは勝元の子政元までであり、その後は二流に分裂してしだいに力を失っていった。

戦国時代の上限と下限

常識的な時代区分によると、戦国時代とは、応仁元年(一四六七)の乱の開始から、天正元年(一五七三)織田信長が将軍義昭を追放するまでの一○○年余りの時期をさすことになっている。たしかに尋尊が記した状況は、応仁の乱によってもたらされたのだから、この時代区分はいちおう適当だといってよい。けれどもすこし具体的に考えてみると、いかに諸国の動乱がはげしいといっても、義尚の代までは、まだ中央政権としての室町幕府の存在を無視するわけにはゆかないし、幕府守護の体制そのものに正面から反逆的態度を示したものもほとんどいない。その意味で、戦国時代の開始時点を応仁の乱の勃発に求めることはややあいまいであり、いささか早きに失するといわなければならない。むしろ次のような一連の動きこそが、戦国時代開幕の実際の指標だと思われる。

文明一八年(一四八六)、出雲で前守護代尼子経久、守護京極氏の拠点月山城を奪う。
長享二年(一四八八)、加賀で一向一揆、守護富樫政親を倒す。
延徳三年(一四九一)、北条早雲、伊豆韮山を奪い堀越公方足利茶々丸を殺す。
明応二年(一四九三)、細川政元、将軍義材を追放する。

すなわち、数年間につづいておこったこの四つの事件は、既成の支配者同士の権力闘争にとどまるものではなく、どれもが、幕府―守護体制そのものに対する根本的な反逆という性質を帯びていた。このなかからさらにどれか一つの事件で線をひき、時代区分の画期を明瞭にせよといわれるとむつかしいが、あえていえば、前三者をふまえて、政元のクーデターをもって戦国時代の開始ということができるだろう。やはり、ローカルな事件だけで歴史の全体的変化を区切ることは適当でない。その点、政元のクーデターは、将軍の実権と既存の幕府体制にとどめを刺したという意味で、全国的な意味をもち、一つの時代の終わり、したがって新時代の始まりとするにふさわしいといえる。
では、戦国時代の終末点はどこか。そのくわしい理由はのちに述べるが、結論だけをさきにいえば、私は、通説の天正元年(一五七三)(信長の義昭追放)よりも、信長が岐阜から安土に移った天正四年のほうが適当だと考える。安土進出は、濃尾の戦国大名信長が、「天下人」への飛躍を具体化したもっとも明瞭な画期である。そしてさらにいえば、信長の安土時代を引き継いで秀吉が天正一八年(一五九〇)、小田原の北条氏政・氏直を打倒し、国内統一の軍事活動を完了するまでを実質的には戦国時代の最終局面として視野に入れる必要がある、と思う。そうしたわけで、本書の叙述の範囲は一五世紀の九○年代から一六世紀の九○年に及ぶほぼ一世紀ということになる。

時期区分をどう見るか

おおまかにいって一世紀にも及ぶこの戦国時代は、一つの時代としての独自の特徴をもつと同時に、その初期と末期とでは当然のことながら、ずいぶんと変化がある。感覚的に分かりやすい絵画史でいえば、水墨画の頂点雪舟(一四二○~一五〇六)の時代から、豪華絢爛たる狩野永徳(一五四三~九〇)の時代までの推移をふくんでいる。また人の世代でいえば、およそ三世代の歳月にわたる。したがってこの一世紀に登場する群雄たちをひとくるめにしたり、その間の社会的推移を無視したりすれば、時代把握は平板になってしまうおそれがある。やはりこの時代のなかをさらに時期区分して見てゆくほうが、一世紀の歴史の流れを具体的にとらえることができるだろう。
そこで試みにおもな大名たちの生存期間を一瞥しよう。天文一二年(一五四三)(一五四二年説もある。後述)は、この時代の戦術を一変させた鉄砲伝来の年であるが、ほぼこの時点は大名たちの生存期からみても、大きな境目ということができる。北条早雲と氏綱父子、尼子経久、駿河の今川氏親などははっきりと”鉄砲以前”の人である。

陸奥の伊達稙宗、周防の大内義隆、美濃の斎藤道三などの主な活動もだいたい鉄砲以前、といったほうがよい。それに対して北条氏康・毛利元就・武田信玄・上杉謙信・浅井長政・朝倉義景・三好長慶・松永久秀などは、年齢に差はあっても天正元年(一五七三)前後にみな生涯を終わっている。これらはいわば、鉄砲以後,の戦国第二世代の人々である。
代表的人物の生死を指標にして歴史を見るというわけではないが、そうしたことも念頭において戦国時代のなかをさらに時期区分すれば、明応二年(一四九三)から天文一二年(一五四三)までの五〇年を第一期(前期)、それ以後永禄一一年(一五六八)の信長入京までの二五年間を第二期(後期の前半)としたい。これは、各地で大名領国体制が本格的に形成されてゆく時期である。それに対して第三期(後期の後半)に当たる永禄一一年から信長の安土移転すなわち天正四年(一五七六)までは、全国の動きが信長に対する武田・朝倉・浅井・毛利などの大名と本願寺=一向一揆の戦いにまとまってゆき、「天下」を賭けた争いに歴史が収斂してゆく局面である。この動きは天正一八年(一五九〇)秀吉による小田原北条氏打倒によって完了する。したがって第三期は戦国の終わり、天下統一の過程であり、いわゆる織豊政権期にかかっている。第三期は統一の本格的進行期であるが、信長の若い時代はまだ戦国といったほうがよい時代的特徴をもっている。

時代を見る目

では、日本列島諸地域の動きがそれぞれ半ば独自に、半ば連動しながら同時併行で進行するこの時代の歴史の本質をとらえるには、どこに目をすえるのが適当であろうか。歴史を見る目は人によってさまざまであり、絶対というものはありえない。しかし私は、すくなくとも次のような点を念頭におくことが大切だと思う。
第一は、戦国時代史を、群雄抗争の年代記だけにとどめないことである。たしかに戦国の群雄たちはそれぞれに卓越した能力と個性を発揮し、時代をリードする存在であった。この時代になぜ個性強烈な群雄がいっせいに姿を現すのかも歴史として重要な問題だ。だが、この時代には社会のあらゆる階級・階層・集団・個人などが、それぞれに歴史の舞台に登場し、鮮明な役割をもち、相互にからみ合いながら社会をゆり動かしてゆく。歴史はなによりもそのような全社会層の動きの総体を相関的・構造的にとらえるものでなくてはならない。

第二は、動乱のもたらす社会変動を、そのもっとも深奥の要因から考えてみることである。社会変動とは、いわば深層ナダレのようなものであって、表層の観察からだけではその本質をとらえることができない。織田信長がもっとも手を焼いたのが一向一揆であったことからもすぐ考えられるように、戦国動乱の深奥部の力は地侍・農民などの惣・一揆を基礎とする民衆闘争だった、と私は思う。一向一揆はとりわけきわだった動きであるが、地侍・農民のような村に根を下ろした広範な人々が諸地域で強い自律的・独自的な活動を展開し、社会の在り方を根底から変えていったのがこの時代の特徴である。

第三は、この激動の世紀を、たんなる破壊と混乱の時代としてではなく、革新と創造の時代としてとらえることである。この動乱によって、もはや色褪せた「中世」的なものが否定し去られ、新たな「近世」的なものが準備されてくるといわれるのであるが、それは具体的にはなんだったのか。人々の生活や社会の諸関係も、人間のタイプも、また価値意識も、この一世紀のあいだに一変した。そこで生みだされ、新たに創造されてくるものを明確にすることこそ歴史を見る目の基本である。そこには過渡期というだけではすまない独自性豊かなものがある。
第四は、この時代を世界史的な視野のなかで、ひろく、深くとらえることである。一五世紀末から一六世紀にかけて、世界は大航海と発見の世紀にはいった。ポルトガル・スペインをはじめとするヨーロッパ人が、アジアに進出するなかで、日本・琉球・中国・朝鮮・東南アジアもいやおうなしに新たな国際関係のなかにおかれることとなる。「日本」の中として見すごされがちの琉球や北海道もそのなかで大きく変動し新しい特徴をもつようになる。それらは日本の戦国時代史の展開にどのような影響をもたらしたか、また日本人の自己認識・国際認識と国際感覚はそのなかでどのように変化していったのか。戦国大名たちにとって、戦争と内政、外交と貿易が切りはなしえない一体的なものとなってゆくことは、これ以前にはみられない特徴であって、それがこの時代の変動のスケールをいちだんと大きくし、「面白さ」をももたらしているといえる。

永原 慶二 (著), 本郷 和人 (解説)
出版社 : 講談社 (2019/7/12)、出典:出版社HP