現代論理学入門 (岩波新書 青版 C-14)

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論理学の入門書

論理学の本と聞くと、「難しいことが書いてある本だ」「理解できないだろう」と感じる人も多いのではないでしょうか。本書は、そんな論理学について、論理的な思考や考え方がどのようなものか説明することから始め、現代論理学と思想の問題までわかりやすく解説しています。論理学の専門書を読む前に読んでおきたい一冊です。

沢田 允茂 (著)
出版社 : 岩波書店 (1962/5/26)、出典:出版社HP

岩波新書(青版)
沢田允茂著
現代論理学入門
岩波書店

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「著作権情報等」

目次

はじめに
I論理的な思考とは何か
1論理のする仕事は何か
情報の処理―推理の働き
2日常言語の意味するもの
心と肉体と論理―前論理的思惟は存在するか
3記号の働きとはどのようなものか
論理という語の意味―記号と人生記号と知識―言語記号の特性記号とそれを使うもの―記号とそれが指すもの
4記号活動の中に働いている形式
記号と記号との結びつきー語と文のちがいー形式化とは何か

Ⅱ現代論理学の考え方
1論理学は進化する
論理学の前近代的形態―論理学における近代的反動の諸形態―何故に数学と論理学とは結びついたのか―数学的論理学にたいする現代の反動
2文の論理とその構造
論理語の働き―文の計算真理関数、トートロジーー文計算の基本的な諸法則
3述語の論理とその構造
主語と述語―「すべて」と「存在する」―矛盾と反対存在と述語―述語計算の諸法則―関係の論理―拡張された述語論理とパラドックス
4論理学はいかにして公理化されるか
知識と公理化―論理学の公理化―公理体系の諸性質

Ⅲ現代論理学と思想の問題
1世界をどのように見るか
2論理は変化を捕えうるか
3存在と無の問題
4人間、機械、論理
あとがき

沢田 允茂 (著)
出版社 : 岩波書店 (1962/5/26)、出典:出版社HP

はじめに

「論理」という言葉にたいして一般にひとびとはあい反した、極端な反応をもつものである。一方においては、論理にたいする感情的な敵意が知識人とよばれるひとびとのなかにもみられる。「ひからびた論理」、「灰色の論理」、「現実を遊離した単なる論理」などという形容詞的な修飾をはじめとして、「現実は論理によって動いているのではない」とか「この豊かな人生を論理によって把握しようとする馬鹿げた努力」などという主張は、詩的な、あるいは文学的なムードで世界や人生を解釈しようとするひとびとの常套句であり、またある種のひとびとにとっては、論理とか理論とか、または学問一般にたいするサディスティックな快感をくすぐるに十分な警句でもある。彼らにとっては、論理とは単に現実の表面だけを、しかも形式的にとり上げようとするときだけに必要であるかもしれないが、現実の深みをその具体的な内容とともに受け取ろうとするにはまったく無力な形骸にしかすぎない。そして彼らは世界や人生の真理を、論理を越えた或るもののなかに求めようとする。

しかし、他方において論理にたいする、十分な理論的根拠のない、感情的な信頼も存在している。このようなひとびとにとっては、論理的に考え、論理的に行動することは人生の最大の目標の一つであるばかりでなく、このようにすることによって人間の知性はより完全となり、したがってまた現実を支配しているあらゆる誤解や対立や、またこれらから生ずるあらゆる悩みや不幸は解消されていくのだと信じている。彼にとっては、現実のすべての事象は論理的に生起しており、論理の法則によって支配されていると考えられ、したがって、われわれが慎重に、かつ感情を抜きにして論理的にものごとを考察し、行動するならば、人間はいつかはより賢明となり、より幸福になれるのだという一種の理性信仰がこれらのひとびとを支配している。
論理にたいするこのようなあい反した二つの意見は、それぞれ完全に誤りだということはできない。なぜならば、それはともに論理というもののある側面をいい表わしているからである。しかしながら、それはともに完全に真理だということもできない。なぜならば、それらは論理というものの他の側面を無視しているからである。両者に共通な欠陥は、このような極端な対立した意見を主張するひとびとが、いずれも「論理」というものについて的確な意見をもつにたるほど「論理」というものを十分には理解していない、ということである。多くのひとびとは「論理」ということばに伴うところの漠然とした感情的反応を表明しているにすぎないのであって、「論理」ということばが具体的にはどのような知識の在り方を指しているのか、またそのような知識が人間の全体の行動のなかで具体的にどのような働きをしているのか、ということを深く追求しようとしない。

これはちょうど、ひとりの人間をはさんで、ある人は彼を前方から、また他のひとびとは彼を後方だけからちらと見ただけで、その人の印象批評をしているようなものである。一人の人間をほんとうに理解しようとするならば、まず彼の周囲をまわって前後側面のあらゆる方向から観察することが必要であるだけでなく、さらにその人にいろいろな仕事をやらせてみて、その行動の中で評価すべきであろう。不幸にして現在まで論理とか論理学というものは多くのひとびとの環視のなかに立たされる機会をもたなかった。それは「論理学」としては哲学者たちの蔵品の一部として戸棚の片隅に置きざりになって人目にさらされなかったし、また「論理」としては、ある種の社会形態のなかでは一般民衆がもつには「好ましからぬ武器」として意識的に敬遠されてきた。

前者に関しては、論理学というものを多くのひとびとの使用に役立つように発展させることを怠っていた哲学者に責任の大半が帰せられるかもしれない。この点についてはいずれ本文のなかで明らかにされるであろう。後者に関しては社会が責任をおうべきであろうが、しかしこれにはいろいろな社会的な原因が考えられねばならない。論理というものがその価値をみとめられるのは、人間のひとりひとりが「言論の自由」の原則のもとに、対等に自己の意見を発表し、暴力や権力によってではなくて「論理」の規準によって言明の真偽を決定しうるような社会においてであろう。ゴーゴリの「検察官」の中で、主人公が政府の有力な官吏と間違えられて田舎の役人にむかって意見をのべる場面がある。彼の話をきいたあと、ひとりの役人は感心してつぶやく。「あいつは何という大物だろう。一時間もしゃべったのに何をいったのかさっぱりわからない」と。官吏が論理的に問答することを拒否し、人民に語るときには(おそらく意識的に)混乱した論理で相手にたいして煙幕をはり、他の権力の手段によってものごとを運ぼうとするような社会では論理は支配階級だけの有力な武器でしかありえない。論理の価値はむしろ、庶民の雑踏する市場の中で相手かまわず話しかけ、衆人環視のなかで議論をたたかわしたソクラテスの、あの古代ギリシヤの都市国家アテナイのなかで、始めて真の哲学的精神、すなわち愛知のための具体的な手段として生き生きと感じられたのであった。

現在のわが国はかつての一時代前の「こと挙げせぬ」ことを美徳とする社会から脱皮して、まがりなりにも近代民主主義国家の線に沿って歩んでいる。そこでは政治も日常の人間関係も、すべて言論の自由の原則にしたがっておこなわれねばならない。「論理」のための社会的苗床は用意されているのである。また実際に、論理の価値とその重要性も次第にみとめられてきている。しかし、人間が現在もっている論理的な思考の実際のあり方を正しく評価し、有効に使用するためには、論理という語にたいする漠然とした価値感情の表明だけでは不十分である。実際にわれわれが所有しているところの論理的な働きは、現在われわれがもっている「論理学」のなかで具体的に示されているのである。抽象的に論理を語るのではなくて、具体的な論理学の知識にもとづいて論理を語るべきであろう。
この点についてはさいわいにも現代における論理学の発展は、過去において哲学者たちが戸棚のすみに閉じ込めていた論理学を、より多くの他のひとびとの共通財産として提出するにたえるものにしつつある。ある意味で、古典物理学が量子物理学に発展拡大したのにも似た発展と拡大とが、論理学の世界においても今世紀の初頭以来おこっている。しかし物理学の場合とちがって、論理学の領域でのこのような画期的な発展は、ごく一部の哲学者の注目するところにとどまり、一般のひとびとの関心外におかれてきた。物理学上のあらたな発展ははっきりと眼にみえる実用的な結果をひきおこす。しかし論理学上の発展がわれわれの考え方のうえに及ぼす影響は、より緩慢であり、急激な変化などというものは生じない。しかし、ゆるやかではあるが一世代と次の世代との物の考え方が異なっているように、われわれのすべてのものに対する物の見方を変えてゆくものである。

私がこの書のなかで書こうとしていることは、冒頭にのべたような「論理」にたいする極端な評価を、より的確な正しい評価にまで高めていくために、論理学者とよばれているひとびと、あるいは現代の論理学を学んだひとびとが一体、どのようなことをしており、またどのようなことに問題をみいだしているかを多くのひとびとに理解してもらうことである。しかし、そのためには幾多の論理学の教科書に書かれてあるような技術的な操作にかんする知識を解説するだけでは十分でない。むしろ、このような考え方、このような操作がわれわれのもつ知識一般のあり方にどのような影響や効果をあたえているのか、という、いわばより広い人間活動のなかでの論理の位置づけと、それにたいする反省とがより重要だとおもわれる。

もし私のこの意図が幸にして読者に理解されたとすれば、最初にのべた「論理」にたいする対立した二つの評価のなかで提出されている問題は、論理学の具体的な諸問題のなかで(論理学を一括して拒否したり、単に感情的に信頼したりすることによってではなくて)解決されるような問題として改めて見なおされるであろう。単なる感情的評価でなくて実質的な問題解決への努力としてあらわれるであろう。そしてこのような知的努力こそ「論理」の働きがわれわれに与えうる唯一の価値ではないだろうか。「基礎科学教育」ということが近来しばしば問題とされている。しかし、いかに科学研究のための技術的な知識を与えてみても、もしわれわれが論理にたいする正しい評価と、そこから生ずる問題の解決にたいする正しい知的努力とを身につけないならば、いわば根のない樹を植えるようなことに終ってしまいはしないだろうか。そのような樹はみずから成長し発展することができないので、われわれはいつもよそででき上ったものを借りてきて飾りつけなければならなくなる。さらにまた、そのような樹は、それを生みだしていく生命力から切りはなされているが故に、ともすれば人間社会の有機的な均衡をしばしば破壊し、人間を不幸にするような破壊的な道具としてだけ使用されるというような結果を招かないとは限らない。このような意味においても、私は「論理」というものの能力とその限界とにたいする正しい理解は、将来の人間のすべての知識の道具として、「言語」や「数学」と並んで最も基礎的な学問の分科に属すると考える。

もちろん、一冊の数学の本を読んだからといって現実のすべての事象についての数量的把握が身につくとは限らないように、あるいは、一冊の文学書をよんだからといってそれだけで文学的なセンスが生れるとは限らないように、一冊の論理学の本をよんだからといって、それだけでわれわれのなかに論理的能力が生れる、などと考えることは大へんな誤解である。この本が、論理というものにたいする正しい評価をもつための一つの手引きとなり、論理的能力を身につけるための、いわば一つの刺激となって、他の多くのすぐれた論理学の書物への導きとなることができればと念じながら書きはじめていこう。

沢田 允茂 (著)
出版社 : 岩波書店 (1962/5/26)、出典:出版社HP